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挨拶するあぜ上都議

   亀戸事件追悼会


   赤門 浄心寺(亀戸4丁目)


2011年9月25日更新 亀戸事件88周年追悼会 


 

 2011年9月4日

日本共産党東京都議団 あぜ上三和子  


 

 亀戸事件88周年にあたり、日本共産党東京都議団を代表して、謹んで追悼の言葉を送ります


 関東大震災が起こったとき、川合義虎は必死の救援活動にとりくみました。猛火が迫る中、幼児3人を救いだし、赤ちゃんには粉ミルクを買ってのませ、子どもにはビスケットを食べさせ、自分の上着を掛けて上野公園で一晩中抱いて、安全な所に移したとのことでした。彼のお母さん――たまさんは、その話を聞き、わが子の勇気とやさしい心づかいがうれしく、涙を浮かべて喜びました。ところが、川合義虎は、その直後に捕まって、亀戸の警察署で21歳の若さで虐殺されたのでした。
 お母さんは、亀戸署に抗議に行き、「私の子はどんな罪で殺されたのか」と激しい怒りと涙で署長に抗議をしたそうです。生まれたばかりの日本共産党と日本共産青年同盟は、国民の命を守るために、こうした不屈の活動にとりくむ中で、不当な弾圧を受けたのです。
 
今年は、3・11の大地震・原発事故と、かつて私達が経験したことのない未曾有の事態の中で亀戸事件88周年を迎えました。いま被災地で発揮されている「国民の苦難軽減のために献身する」という日本共産党の精神は、こうした不屈の伝統の積み重ねのうえに築かれたものと、あらためて党員としての誇りと確信をもつと同時に若い命を奪った暴挙に大きな怒りがこみ上げてきます。
 なおこの無法な虐殺行為に対して、亀戸の警察署長は「当然の処置」と開き直りの談話を出しましたが、それを出させたのは、後に読売新聞社社主となった当時警視庁官房主事の正力松太郎という人物でした。1955年に、最初の日米原子力(研究)協定が結ばれ、原子力基本法がつくられましたが、その人物こそ初代原子力委員長です。この原子力基本法にたいして、当時の自民党も、社会党も賛成するなかで、その危険性の問題を指摘して反対したのは、当時、労農党と共同会派をくんでいた日本共産党だけでありました。こうして日本共産党は、日本に原発が導入されたいちばん最初の段階から、その危険性に警鐘をならしてきっぱり反対し、住民とともにたたかってきた政党です。
いま民主党政権も自民・公明も上からの復興の押し付け、原発の継続・促進にしがみつき大連合、翼賛体制で、その強行突破を狙っています。まさにそのせめぎ合いのもとで、国民の命とくらしを守る政治の流れを大きく前に進めるためには、広く深く国民と結びつく強大な党づくりが不可欠です。都議団は、党員の誇りと自覚を胸に、そして二度とふたたび、このような不当な弾圧や歴史の逆行を許さない決意で、活動の先頭に立って奮闘します。  その決意を表明し、追悼の言葉といたします。

 


 2010年9月6日更新

  亀戸事件87周年追悼会


※追悼会に寄せられた都議団を代表してのあぜ上三和子都議の弔文の全文を紹介します。

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日本共産党都議団を
代表しあいさつ

亀戸事件87周年にあたり、日本共産党東京都議団を代表して謹んで追悼の言葉を送ります。

1923年9月1日に発生した関東大震災の混乱に乗じた時の天皇制権力は、朝鮮の殖民地支配をはじめアジア侵略を進めるために、これに反対する日本共産党と先進的な労働運動への弾圧を企て、日本共産主義青年同盟の初代委員長・河合義虎、南葛労働組合の平沢敬七、吉村光治ら10名を逮捕、亀戸警察所内において虐殺し、同時に数千人に上る朝鮮人や中国人を虐殺する暴挙を行ったのであります。犠牲となられた方々の無念を思うとき、怒りとともに闘いへの新たな決意がこみ上げてきます。

今日、世界の大局を見ると軍事同盟から離脱し、人類の英知と努力らよって戦争と武力行使を地球上からなくしていこうとする動きが巨大な流れになっています。武力の放棄と紛争の平和的解決のための地域共同体をめざす東南アジア友好協力条約は、54カ国が加入し、世界人口の七割をおおう地域にまで拡大しています。

今年の原水禁世界大会では核兵器禁止条約締結のための交渉をすみやかに開始することを求め、「核の傘」から離脱するよう求める画期的で「全ての国の政府への手紙」を採択しました。こうした前向きの変化を促した根本の力は、どんな弾圧にも屈せずたたかい続けてきた日本共産党の存在があり、平和を願う世界諸国民のたたかいです。

しかし、我が国において軍事編重で、やみくもに海外派兵を推し進め、憲法を改悪して、あくまでも「海外で戦争する国」にしょうとする逆流が政権交代後も現存していることは極めて重大です。日本共産党は、戦後一貫して核兵器廃絶のために戦い続け、綱領にもその課題を明記した党として、歴史の逆行を許さず、憲法を守り、核兵器のない世界をめざしてアジア諸国民との平和・友好、連帯の未来を築くために全力をつくします。

同時に、引き続く政治の激動のもとで、どんな状況の中でも前進できる実力をつけるためにも、広く国民と結びつき、強大な日本共産党づくりに奮闘します。

その決意を表明し、追悼の言葉といたします。

2010年9月5日

 日本共産党東京都議会議員
              あぜ上 三和子
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慰霊碑に合掌する
あぜ上三和子都議

 2009年8月13日更新

    亀戸事件86周年追悼会
  関東大地震時の

   朝鮮人被害者追悼会、亀戸事件追悼会に参加しました。

 1923年9月1日午前11時58分、神奈川県の相模湾沖でを震源地として発生した大地震(マグニチュード7.9)。関東地域に大きな災害をもたらしました。

 

  • 死者・行方不明者 : 14万2800人
  • 負傷者 : 10万3733人
  • 避難人数 : 190万人以上
  • 住家全壊 : 12万8266戸
  • 住家半壊 : 12万6233戸
  • 住家焼失 : 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
  • その他 : 868戸
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

当時の天皇制権力は、大地震の混乱に乗じて朝鮮人や社会主義者が「暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という流言飛語(デマ)を流し民衆を煽り6000人の朝鮮人や中国人(700人)が虐殺された。

毎歳、9月1日には、「朝鮮人犠牲者追悼式」が墨田区横網町公園で開かれています。

また社会主義者や自由主義者を一掃しようと警察や軍隊が、大地震の被災者の救援活動をしていた川合義虎(初代共産主義青年同盟委員長)や労働組合の平沢計七吉村光治ら十名が亀戸警察署に連行され、4日には軍隊が虐殺をおこなった亀戸事件。(被害者追悼会が9月第1週の日曜日に開かれています)

その後、大杉栄・伊東野枝・大杉栄の6歳の甥(橘宗一)らが殺された甘粕事件(大杉事件)、在日中国人指導者の王希天などの虐殺事件と続きました。

この事件以降、時の政府は、社会主義者や労働組合の活動家の虐殺・弾圧、侵略戦争へとつきすすんでいきました。


■ 朝鮮人犠牲者追悼会 (09・09・02 しんぶん赤旗から)

 1923年の関東大震災時に天皇制政府と官憲がながした流言飛語がもとで、全く罪のない朝鮮人六千人以上、中国人700人以上あ軍隊と警察などに虐殺されました。その犠牲者追悼式が1日、東京都墨田区横網町公園の追悼碑前でおこなわれました(実行委員会主催)。1500人の参加者が黙とう後、アジアの平和と安定を願ってッ献花をしました。(略)

日本共産党の畔上三和子都議は、「憲法を守り、アジア諸国民との平和、友好、連帯の未来を築くために全力でがんばります」と追悼の挨拶を述べました。


■ 亀戸事件被害者追悼会


権力による「虐殺を繰り返させない」との思いで、毎年赤門・浄心寺で追悼会を開催しています。

この事件以降、時の政府は、社会主義者や労働組合の活動家の虐殺・弾圧、侵略戦争へとつきすすんでいきました。


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