どんな人でも愛せる人に
私は三人兄弟のすえっ子に生まれました。小学校時代のニックネームは、”金太郎”でした。中学生のとき、成績があがって有頂天になっていたとき、母から「勉強ができなくともよいから、どんな人でも愛せる人になりなさしい」と叱られました。この言葉は、今でも忘れない大切なことばとして生きています
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写真中央があぜ上さんの
おかあさん |
私の原点は福祉の現場
私は福祉施設と保育室の保育士として働き、障害のある人々や子どもたちから人の命の尊さと生きていくことの素晴らしさを学びました。「人として生きる」原点を教えてもらったと思います。また、自らも頸椀症になり福祉現場のきびしさも知り、思い悩んでいました。そんなときに出会ったのが、『空想から科学へ』という本です。「歴史は国民の手によってつくられる」、そしてそのかけがえのない一人ひとりを大切にする政治を求めて日本共産党に入りました。福祉の後退許さず、誰もが安心して生きてくるような政治の実現にいっそうがんばります。
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日本共産党と私
障害者の保母として働くなかで、障害のある人々に人の命の尊さと生きていくことの素晴らしさを学びました。しかし、自らも頸椀症になり福祉現場のきびしさも知り、思い悩んでいました。その頃『空想から科学へ』という本に出会い、「歴史は国民の手によってつくられる」ことを知り、目覚める思いで日本共産党に入党しました。
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区議会議員になって
区議になってから、結婚、出産し、家庭も仕事も両立するようがんばってきました。区議会史上初の議員員出産で、二期目は授乳しながらの選挙でした。おおくの方々と出会い、ともに要求を解決するなかで、子どもも、女性も、お年寄りも、障害のある人もない人も、だれもが大切にされる社会づくりが大切と改めて思い、全力をあげてきました。
─子ども医療費助成制度の生みの親─
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議事録から
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うれしかったこと
息子の拓くんが、受け持ちの先生に、「お母さんみたいに人のために役に立つ人間になりたい」と言ったと聞きました。自宅で宿題をみていても生活相談の電話がかかってきます。「まず相手の話をじっくり聞いてから」をモットーにしているので、時には二時間に及ぶこともあります。そんな会話をそっと聞いているのでしょうか。今では、大学生です。
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都議会議員に初当選
3・11東日本大震災、東電福島第一原発事故は、国と自治体の役割を改めて見直すきっかけになりました。国民、住民の生命と財産を守る地方自治の原点が問われていると思います。
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